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2/15 日記

いつからか学校の宿題に自主学習なるものが加わった。自主学習。素晴らしい響きだ。自主的な学習を促すのだろう。しかし実態はそうではない。強制的な(雰囲気のある)学習だった。

 

学習とは本来、自主的なものであるはず。主体的でもあるはず。それが誰かにやらされているのが現状。この自主学習ですら、競い合わせ、質より量を重視する傾向にあることはここいら辺だけの風潮ではないように思う。

 

知りたいという知的欲求は本来なもの。それは生まれながらの備わっている。あれ何?これ何?それに応えてやることが最初の一方のように思う。それをうるさいなあ的な対応をしているとだんだんとその要望をすることがいけないことのように感じられ、結果言われるまで何もしない傾向になるのではないか?まあこれはただの推測ですけど。

 

そもそも宿題って何だろう?なぜ学校の授業だけで間に合わないのだろう?そこが一番の疑問であります。毎日6時間も学習してきてなぜ家に帰ってからも学習しないといけないのだろう?ずっと疑問だった。今でも。

 

やりたい人はどうぞ!的な学習ではだめなのだろうか?宿題や自主学習はボーナスではないのか?やったらいいよ的な。そして考えるに、学習しないとおいてかれるぞ的な雰囲気も良くない。宿題をしないからと言ってできなくなるわけじゃない。やったらさらにできるようになるのだ。

 

そして宿題や自主学習を評価の対象にすることも解せない。ボーナスなのだよ、ボーナス。ボーナスを査定対象にしてどうするの?

 

なんならできる人はAで出来ない人はCってこともおかしなことではないか?できるってはテストの点数でしょう。点数の他の態度や提出物の評価はどこに行ってしまうのだろう?比べることさえおかしなことだと感じてしまう。

 

成長とは相対的なものではなく、絶対的なものであるべきなのです。平均から比べて評価っておかしいでしょう。平均って意味ある?ないでしょう。個人的な成長こそ評価すべきなのではないか。それができない教員はいらない。だって人を見てない。成長を感じられない教員って教える資格無し。

 

子どもの数は減っています。だからこそもっと一人ひとりの成長を感じ、ともに成長する社会であってほしい。