アルティメットを始める君へ

アルティメットを始める君へ(プロローグ)

大学時代の後輩玄島くん。彼が東北にもたらす影響は計りしれない。もちろん全国にも。
大学時代の後輩玄島くん。彼が東北にもたらす影響は計りしれない。もちろん全国にも。

アルティメットを始める君へ(プロローグ)

 

君が、アルティメットを始めるということは、大学生になったのかもしれないし、まだ中学生かもしれない。ともかく、どこかでアルティメットのことを知り、実際にプレーし、アルティメットの魅力を感じ始めているのだろう。ぼくとしては、非常に嬉しいことだし、応援もしたいと思っている。アルティメットを伝える本は少ないが、インターネット上にある情報は年々増えているから、参考にすると良いだろう。

 

ぼくが伝えたいことは、もっと別にある。

 

アルティメットで一番大切なことは何か。それは誰に聞いても同じだろう。

 

『スピリット オブ ザ ゲーム』

 

この精神こそが、アルティメットの根幹を為していると言って良い。

簡単に言うと、ずるはしないということ。正々堂々と闘うことをよしとしている。

 

しかし、ぼくが言いたいことは違っている。もちろん『スピリット オブ ザ ゲーム』は大切にすべきだし、できないようではいけない。ただ、アルティメットの試合に出るために必要なことをすべて述べているわけではない。

 

 

『アルティメットの試合に出る。』

 

ぼくにとって、このことが一番重要だ。『スピリット オブ ザ ゲーム』が重要なのは判る。でも試合に出た時に、どうやって動けば良いのかを示しているわけではない。アルティメットの試合に出た時に重要なことは、君のできることとできないことを相手に伝えることだ。走るのが得意だったり、声を出すのが得意だったりするかもしれない。バスケットボールの全国大会に出場したことが有るのかもしれないし、すでにアルティメットを経験したことがあるのかもしれない。どちらにしても、君ができることとできないことを相手に伝えないことには、パスは貰えないし、試合にもでれない。チームメイトが君の能力を見抜く力に長けていたとしても、君の全てを知ることはできない。君のことを伝えることで、君の能力をさらに伸ばす助言をしてくれるかもしれない。

 

これから書くぼくの人生をもとにしたストーリーからアルティメットのエッセンスを汲み取ってもらえたらうれしく思う。

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アルティメットを始める君へ(1)

大学時代の先輩、齋藤さんと。齋藤さんが居なかったら今の自分はない。
大学時代の先輩、齋藤さんと。齋藤さんが居なかったら今の自分はない。

アルティメットを始める君へ(1)

 

ぼくは、四谷駅のホームに両親と一緒にいた。大学の面接が終わったのだ。

5分という面接時間だったのだが、面接教官との話しが盛り上がり15分近く話してしまい、母親が心配していた。ぼくは、どうせ落ちると思っていたので、東京は土地がないから立体的だの、人が多すぎてお祭りみたいだなどと東京について感じた事を臆面なく話した。教官も聞き上手な方で予定時間の5分を過ぎても気にせず、結果15分も話してしまっていた。

 

2週間後、合格通知が届いた。

思いがけず、東京の大学生になったのだ。

 

約4ヶ月後の4月1日の入学式の朝、ぼくは約4ヶ月前のぼくとは違った立場で四谷駅のホームにいた。

 

大学生活が始まり、プロゴルファー目指して入部したゴルフ部をさっさと辞めてしまったぼくにクラスメイトが着替えとスパイクをもって一緒に来るように声を掛けてきた。

ある日ぼくは彼に連れられ、校門をで出て短いトンネルをくぐった。ひんやりとしたトンネルを抜けると、眼下にグラウンドでたくさんの人が動き回っているのが見えた。

グラウンドの向こうは丸ノ内線の線路だった。

グラウンドにつくと、とりあえず着替えた。着替えたぼくに先輩と思われる人が寄ってきて、清々しい笑顔で、ここに名前を書くように言ってきた。何の疑問も無しに書いた。あとで気づいたことだが、これでアルティメットサークルへの入部の手続きが終了した。

 

こんな感じで、ぼくのフライングディスク人生が始まった。

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アルティメットを始める君へ(2)

アルティメットを始める君へ(2)

 

競技自体は、サッカーをやっていたのでそんなに難しくなかった。タイミングを見計らって走り、パスを貰えば良いのだ。パスを貰えそうな場所は何となく判った。先輩に注意された場所は駄目、褒められたりパスが貰えた場所が良いというように理解した。

 

投げることも小学生の時に流行っていて地元でたくさん遊んでいたので投げられたが、違う投げ方があって、それは全くできなかった。パンチパーマで眼鏡の人が上手に投げていたのが印象的だった。彼が同級生であることを知り、ぼくはショックを受けた。上手に投げられることももちろんだが、その風貌にだった。

 

何度か練習に行き、友だちもでき、フライングディスクとの青春を謳歌している頃、ある先輩がぼくに向かって言った。

 

『こいつ、とかちゃん(渡嘉敷勝男さん、元プロボクサー)に似ているから”とかちゃん”だ』

 

中学時代に先輩に天龍源一郎、高校時代に同級生からバカボンと呼ばれ、ニックネームには閉口していたぼくは、これ以来全く練習に行かなくなった。夏休みには地元で車の免許を取り、高校3年生とは違ったのんびりした気持ちで夏を迎えていた。することがないのだ。ひまな夏休みが終わり、大学が始まるとクラスメイトと大学生活を楽しんでいた。カラオケに行ったり、ボウリングをしたり、誰かの部屋で勉強会と称した集まりをしたり、誰かを好きになったりしていた。通学が自転車だったこともあって、東京も散策した。神楽坂、神保町、水道橋。一度は大手町を抜けて散策していたら、学校へ行くのに皇居を横切らないと行けなくなり、お陰で実験の授業には1時間遅刻で出席したこともあった。

 

たまに電車で学校から帰ると、アルティメットサークルの先輩のSさんとホームで一緒になった。Sさんはいつも同じことを言っていた。

 

『とか、練習に来いよ。』

 

『とか』というニックネームが人生を変えるとは思いもつかなかったぼくの足は、またもや遠くなっていった。

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アルティメットを始める君へ(3)

クラブジュニア東北クリニックにて、文化シヤッターBUZZBULLETSのメンバーと。
クラブジュニア東北クリニックにて、文化シヤッターBUZZBULLETSのメンバーと。

アルティメットを始める君へ(3)

 

ここでアルティメットという競技について触れよう。

 

コートの広さは100m×37m、コートの両端から18m以内はエンドゾーンと呼ばれる。7人ずつ敵、味方に分かれて一枚のディスクを投げ、パスをつないでエンドゾーンを目指す、バスケットボールとアメリカンフットボールを合わせた競技で、フライングディスク(いわゆるフリスビーだが、フリスビーは商標であり一般名称ではない。通称;ディスク)を用いる。

 

フライングディスクを保持している人は軸足を固定し、味方にパスを投げなければならない。敵はディスクを保持している人が10秒以内にパスを投げさせるように3m以内に近づいて1秒間隔でカウントする。

 

エンドゾーン内でディスクをキャッチすれば1点ずつ加算され、8点でハーフタイムの17点先取が一般的だがローカルルールも多い。特長的なのは審判がいないことで、自分たちでジャッジするセルフジャッジで行う。基本的にはボディコンタクトなどのファールを起こさない『スピリット・オブ・ザ・ゲーム』の精神が尊重される。

 

歴史的には、1960年代にアメリカ合衆国ニュージャージー州メイプルウッド市コロンビア高校の生徒ジョン・シルバーによって考案されたニュースポーツ<で、世界選手権や、クラブチームトーナメントも行われている。(Wikipedia参照)

 

僕の初めてのアルティメット全日本大会。兵庫県神戸市しあわせの村。練習にもほとんど行かず、大会だけの参加のぼくは1年生チームでの出場だった。当時は同じ大学で何チームでもエントリーしても良かった。うちの大学は部員が50名近く居たので3チームの出場。1(one)が一番強いチーム、3(three)の1年生チームは確か8名か多くて10名だったはずで、ぼくらは数試合をしたが、ぼくは1本もパスがもらえなかった。1本も。真田堀(大学のグラウンド名)での練習では問題なくパスがもらえていたから、自分自身軽く考えていた。

 

ショックだった。練習に出ていないとはいえ、一本もパスがもらえないとショックだ。技術も体力も、信頼関係もなかったのだろうと今、振り返れば良く判る。当時のぼくには相当ショックだった。

 

全日本大会決勝は、昨年までの王者と上級生チーム”1(one)”の決戦。真田堀での練習では見た事もない先輩方のプレー、表情、雰囲気。相手チームの気迫、技術、戦術、振る舞い。全てに圧倒された。自分が一本もパスがもらえなかった事など、どこかへ吹き飛んでしまった。

 

ぼくの人生はここで変わった。集中した時の、人を惹き付ける何かに取り憑かれてしまった。それは、高校生の時に味わった経験と一緒だった。ぼくがいた高校には35kmの競歩大会があった。高校から背あぶり山を通り猪苗代湖の湖畔まで行って、帰ってくる。ぼくは折り返し地点から走り始め、背あぶり山の下り坂で周りの景色が流れていくのを感じた。自分が空を飛んでいるように走っていた。漫画みたいな光景だった。全く疲れもせず、放課後の部活も普通にやった。

 

あとで知った事だが、この感覚は『ゾーン』と呼ばれるものだった。その『ゾーン』を、見ているだけで感じた決勝戦。鳥肌がたった。時が止まったように感じた。あの舞台に立ちたい。

 

ぼくは、変わったのだ。

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アルティメットを始める君へ(4)

東北リーグ秋田大会の玄太郎は大活躍
東北リーグ秋田大会の玄太郎は大活躍

アルティメットを始める君へ(4)

 

春合宿

 

『とか、4月になったら(スローを)教えるんだぞ』

 

先輩は、春合宿でぼくに言った。 決勝戦以来ぼくは暇さえあれば練習した。ボールは恋人ではなく、ディスクは恋人というので、常に一緒に持っていた。寝る時も一緒だ。時間と相手を見つけてスローの練習をしていた。

 

しかし、ぼくはサイドスローがいっこうに投げれなかった。どこに投げるにもバックハンドスローで投げていた。これではマーカーが大きい人だと投げられないし、パスをもらう人だって面食らってしまう。

 

一方、寮で覚えた麻雀のお陰でぼくはサークルに溶け込んでいった。練習の後、4人集まれば麻雀をした。徹夜でしたこともしばしば、あった。

 

麻雀仲間でK先輩のサイドスローは天下一品だった。ピンポイントでパスを通し、敵のディフェンスを切り裂くのだ。 春合宿でぼくは、K先輩にサイドスローを教わった。 まず、体の基本的なつくりを話してもらった。サイドスローを投げる形は不自然であるから、最初は地面と90度近くの角度で投げ、慣れてきたら徐々に角度を水平にしていく。スローがぶれてきたら、できる角度まで戻して、の繰り返し。

 

今思えば、気が遠くなる練習だった。しかも春合宿の合間だから、時間がない。休憩時間に教わるのだから休憩していない。K先輩には申し訳なかったと思う。でもそのお陰で、サイドスローのコツが判った。ぼくのスローが立体的だと後になって言われたが、ルーツはここにある。

 

同時に、別の麻雀仲間のT先輩にバックハンドスローのコツも教えてもらった。当時のぼくのバックハンドスローは草刈りスローと呼ばれていた。大きく振りかぶって投げるからエアバウンズスローになっていたのだ。T先輩は、前に歩きながら投げると安定すると教えてくれた、実際やってみると本当だった。T先輩もエアバウンズスローを克服していたから経験から得た知恵だった。

 

このお陰でバックハンドスローが遠くに飛ぶようになった。力の入れ具合が理解できたのだ。副産物もあった。エアバウンズスローが”安定して”投げられるようになったのだ。晩年になって行くようになった講習会でエアバウンズスローは初心者をわくわくさせるのに十分だった。

 

春合宿の成果はすぐに出た。

 

試合中しっかり投げられるようになってきていた。

だから1年生が入ってきても大丈夫と、気後れしなくなっていた。

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アルティメットを始める君へ(5)

東北リーグ秋田大会にて。
東北リーグ秋田大会にて。

アルティメットを始める君へ(5)

 

2年生

 

面白い1年生が居る。

 

合宿で話題になった。合宿所にあるラグビーポールのバーに届くというのだ。見ると身長がそれほど高くない。ふくらはぎは、ラグビーボールのようにふくれていた。

 

身長が低いぼくは身体的にコンプレックスが有る。高いところでの競り合いには勝てないし、足も速いほうではない。背が高い人を見ると怖じ気づく。しかも器用ではないときている。

 

運動能力が高いH君はのちに全米チャンピオンにまでなるのだが、その片鱗はこのころから見せていた。スロー自体は1年生なのでもちろん上手ではない。しかし、何というか統率力が有るのである。自分が何をすべきかを瞬時に判断し、実行する稀有の能力と行って良い。

 

いつしか彼は、ぼくのことを”とかちゃん”と呼び、傘下に入れていった。

 

ともあれ、ぼくは夏休みになると実家に帰っていた。

 

ある日、同級生から電話が来る。

 

『とか、帰ってこいよ。oneに選ばれたぞ』

 

『?!』

 

oneとは(所属していた)大学で一番強いチームである(当時、one,two,threeがあった)。そこにぼくが選ばれるとは何事か! ろくに練習もしていないのだ。だから帰らなかった。また電話が来た。 『帰ってこい』 仕方なく帰った。

 

oneに選ばれたぼくの役割は、ゾーンディフェンスのカップだった。 ゾーンディフェンスとは、ひとりひとりにディフェンスがつくマンツーマンディフェンスとは違い、一定のルールで自分の守る場所が決められているディフェンスだ。バスケットボールのぞれと似ている。

 

カップとは、スローワーの投げる方向を限定するポジションで一番重要な、体力のいる、頭と声を使うポジションだ。今でもそうだが、当時のゾーンディフェンスは試行錯誤の連続で常に話し合っていた。何せオフェンスは日本一を目指す方々なのだからディフェンス側も大変だった。

 

ポジショニングはどうか、声出しはどうかなど話し合うことはたくさんあった。全く持って始めはザルだった。合宿に行っても三日間ずっとゾーンディフェンスをしていた。 あるとき、ぼくがサイドスローを教わった先輩の顔が曇った。投げるところを探していた。

 

ゾーンの1つの目的としては、スローの度にオフェンスに考えさせることがある。いちいち考えて投げるとスローの精度も下がり、ディスクを動かすスピードも遅くなり、 ディフェンスの餌食になることが多い。それができた。はじめてチームの一員としての一体感を味わった。

 

ゾーンディフェンスを通して、目的ということを意識するようになった。目的は何かを知ることで、何をすべきかが判るようになる。例えばゾーンディフェンスの目的はオフェンスのスピードを遅くすることがある。走ること、投げること、判断すること、声を出すこと、全てを遅くするのだ。

 

つまりは考えさせる。そのためには、投げられる場所を限定して、さらにそこを投げる気持ちを摘み取る。それを実行するためにポジショニングや声を最大限活用する。風が強いのであればそれも利用し、試合前の敵のスロー練習でも目を光らし、誰がキーマンかを確認する。

 

いつからか、ぼくは周りを気にしなくなっていた。

 

自分のやるべきことに集中していたのだ。

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アルティメットを始める君へ(6)

2016ロンドン世界大会にて後輩の玄島くんと勝田くんと。
2016ロンドン世界大会にて後輩の玄島くんと勝田くんと。

アルティメットを始める君へ(6)

 

初めての世界大会

 

1991年にカナダのトロントで開催された世界クラブチームアルティメット&ガッツ選手権大会に参加した。この頃の世界大会派遣は手を上げればどのチームも参加できたから今から思えばいい時代だった。

 

世界大会への渡航費は、もちろん自費。ディスク1枚2,000円でできるよ!と言われてフライングディスクサークルに入ったつもりが世界大会の出費が何十万円!親には本当に迷惑をかけたと思う。しかし火がついたら速いのが男子。アルテにのめり込んですぐに世界大会へ出発した。

 

世界大会でしかできないこと。それはガイジンのチームと対戦することと世界一のチームの試合をライブで観戦できること。2013年の今でこそ文化シヤッターBUZZBULLETESが世界屈指の強豪チームだが1991年当時は全日本決勝で対戦する2チームが20位前後だったと記憶している。

 

世界大会はびっくりすることばっかりだった。会場はサッカーコートが26面とれる会場でどこまでいっても芝生だった。会場にはゴルフのカートが走っていて、飲み物やバナナなどを運んでいた。洋式トイレのドアは下から80cmくらい開いていて、男子の便器はつま先立ちしないと届かない。お昼のサラダには生の米が入っているし、ゲータレードは紫など色とりどり。

 

僕たちが一生懸命投げても20mくらいしか飛ばない風の中、50mもアップサイドで飛ばすおっさんのガイジンはいるし、頭の上からダイブブロックしてくるガイジンもいるし、僕の顔の前に短パンがある背の高いスウェーデン人チームは教科書通りカットを踏んでミートしてくるし(ぼくたちは小さいのだから奥に走って投げてしまえば簡単に得点ができるのに!)、最後の試合は結局日本人チームでの対戦だった。

 

一番肝を抜かしたのは、やはり決勝戦だった。当時無敵を誇るN.Y.N.Y.(ニューヨークニューヨーク)とボストンのBIGBROTHER(ビッグブラザー)。先取点はN.Y.N.Y。ぼくと身長が変わらない人が身長が2m近くあるディフェンスしかも二人に競り勝って取った。会場が度肝を抜かれた彼の名前はケニー。スパースターだった。youtubeにも当時の様子があるかもしれないから一度探して観るのもいいだろう。

 

N.Y.N.Yは当時フォーメーションオフェンスをしていた。一人ひとり動きが決まっているオフェンスだ。これは役割がはっきりする分プレーしやすい。このオフェンスを止めるためにクラムというディフェンスが考案されたそうだ。今の学生にはこのフォーメーションオフェンスは有効だと思う。それは動きを制限されているため、かえって動きやすいというメリットがある。まじめなチームが相手であればディフェンスもきちんとついてくるからフォーメーションオフェンスで効果的に得点できるだろう。ただし、難点もある。先ほど書いたが、ゾーンディフェンスには無効になってしまうし、ポーチされたらフォーメーションを変更しなくてはならない。

 

フォーメーションオフェンスには良い面がもう一つある。それは、スペースを認識しやすいということだ。誰がどこでどの順番でもらうかがはっきりしているためもらうタイミングでスペースを空けなければならない。この時間とスペースの関係が把握できればアルティメットでの活躍が期待できるだろう。

 

もちろんイメージトレーニングが一番の近道だということを忘れてはならない。イメージトレーニングの最初は妄想で良い。こうだったら格好いいなで良い。次に尊敬する先輩やプレーヤーを登場させ、徐々に現実へと移行していく。そして同じチームのメンバーで素晴らしいプレーのイメージを膨らましていくのだ。そうすることで試合中自然と身体が動く準備ができる。

 

試合中にいろいろ考えているようでは相手に見透かされてしまう。たくさんの収穫があった世界大会。アルティメットに対する想いが強くなったと同時に、チームに対しての愛着がわいてきた。大会が終わった後の観光で行ったナイヤガラの滝で、一緒に行ったチームの人たちと木陰で1時間も昼寝をしてしまったことが一番の思い出だ。

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アルティメットを始める君へ(7)

雲のように変幻自在であったなら。
雲のように変幻自在であったなら。

アルティメットを始める君へ(7)

 

決勝

 

岐阜県木曽三川公園で開催された1991年全日本アルティメット&ガッツ選手権大会へ向かうぼくたちは青春18切符を使って電車に乗っていた。

 

途中左側に見えた海に感動したがいつしか夢の中へ引き込まれていった。電車での長旅は好きだ。景色を堪能できる上、その土地の人柄が乗り込んできては降りていく。服装や言葉遣い、振る舞いなど見ていて非常に面白い。

 

東京という街が人を惹き付けるのは世界中の人たちが集まり、文化の違いがあるからこそなのかもしれない。自然という対象に目を向ければ、多様性ということになるだろうか。様々な種の複雑な関係性が自然という大きなバランスを保っているのだろう。

 

食物連鎖や生態系ピラミッドから外れてしまったぼくたち人間は、自然という大きなバランスを意識や行動、文化といった人間独自の方法で保たなくてはならない。経済という一面だけで自然と向き合った結果、ドードー鳥や日本カワウソのような悲劇を生む。

 

ドードー鳥や日本カワウソがいなくなったからといって特段何が変わるわけではないと感じるかもしれないが、1つの種が育んできた歴史が亡くなると思えばやはり簡単には片付けられない問題になる。ドードー鳥や日本カワウソが大きなバランスを保っていた自然の要石だったかもしれないと気づくのは廃墟となった自然を目の当たりにしてからだろうか。

 

夢から覚めると、チームのみんなはいそいそと降りる準備をしていた。木曽三川公園。川沿いに沿ってコートが作られていた。正確な数は覚えていないが10コート以上はあったのだろう。コートの長い辺は100m。単純に見積もっても、端から端まで1km以上ある!ぼくがいたチームは順調に決勝へと進んでいた。

 

一番下っ端の立場のぼくは試合が終わって帰ってくる別のチームで闘っていた同級生たちの試合ごとに成長してくる表情を羨ましく思った。自分たちで何かをつかみ取っている感じがしたのだ。そのことを同級生に話すとうぬぼれるなと一喝された。同級生たちは皆oneに入りたくて一生懸命練習してきたのだった。ぼくはより一層1つ1つのことに一生懸命励むようになった。

 

決勝戦。ただただ、ディフェンスについた相手に翻弄された。敗戦後、サイドスローを教わった4年生と河川敷の土手で長い間話していたことは鮮明に覚えている。彼がこれまで培ってきたこと、決勝のこと、これからのこと。ぼくは大きな想いを託された。この想いは今も胸に刻まれていて、東北リーグを始めるきっかけになったことは間違いない。

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アルティメットを始める君へ(8)

結成間もないディスクヴィレッジのユニフォームを着て。
結成間もないディスクヴィレッジのユニフォームを着て。

アルティメットを始める君へ(8)

 

キャプテン

 

 キャプテンになりたかった。クラスの学級委員にもなったことが無かったから。中学校の柔道部では副部長。高校のサッカー部では係無し。いつかクラスやチームを引っ張っていきたかった。いや今思えば引っ張っていた学級委員長やキャプテンに憧れていたと言ったほうが良いかもしれない。

 

 フライングディスクサークルのキャプテンを決める日が来た。ぼくはもちろん立候補した。けれどもチームメイトは冷ややかな笑みを浮かべていた。キャプテンは決まっていたのだった。

 

 決まったキャプテンは容赦なかった。先輩だろうが、下級生だろうが、遅刻した人には等しく罰を与えた。練習試合にも出さなかった。無断で休んだ人も同じだった。社会に出たら当たり前のことだが当時は上手であればある程度許されるという風潮が無かったわけでもなかったから彼のキャプテンシーは通例とはかけ離れていた。

 

 キャプテンが休みと決めなければ雨が降っていても独断で引き返してはいけない。口癖は、”死ぬ気でやれ!”。以前ぼくがoneが嫌だなとつぶやいた時に激怒した彼は、ストイックなほどに自分を律していた。一度彼のアパートに泊まりにいったときのこと、目覚まし時計がない事に気がついてどうしているのか聞いてみると、時間になると自然に起きるのだという。酒を飲んだ次の日の朝も起きれるのだという。のちにぼくが結婚し妻と一緒に生活するようになった時に同じような人がいるのだなと忘れていた彼のことを思い出したことを覚えている。自分を律する人は自分が起きる時間まで律してしまうのか。学生時代には思いもつかなかったことだった。しかし大会運営や試験など朝早く起きなければいけないときは目覚まし時計が無くても起きているのだから、誰にでも必ずできるのである。

 

 当時の練習は思い出したくない。それほどまでにきつかった。常に走っていたというイメージしか無い。それでもぼくは木曽三川での先輩からの想いを受け継いでいたから、平日の夜に近くの公園で走った。30分間インターバルトレーニングをした。時間があればチームメイトとスロー練習をした。

 

 この年は、8月に宇都宮で世界大会があるから5月に全日本大会が行われた。世界大会の会場となる宇都宮での開催だった。決勝は前年と同じカード。ただ違っていたのは、決勝のギャラリーだった。うちの大学のサークルは当時男女合わせると100名近く居り、その100名がコートの回りを囲むように応援していたことだ。決勝戦序盤ぼくの同級生でチームの中心選手がケガで戦線離脱。絶体絶命のピンチだった。

 

 しかしケガでチームが1つになったのかゾーンディフェンスが効き、相手の中心選手がスローミスを連発し、ブレイク。そのままの勢いで日本一にたどり着いた。万感の想いだった。先輩からの想いを果たすことができた。決勝戦の後の空気感は今でも忘れられない。あとでビデオを見ると一人ひとりが自分の役割をきっちりとプレーしており全体で勝ち取った日本一だった。

 

 ビデオを見た後、キャプテンは間違ってなかったとほっと胸をなで下ろした。自分がやらなくて良かったとさえ思えた。そして自分を律することの大切さも学んだ。自分がやりたいことをしていけば勝利に近づくのではないのだ。勝つためにしなければならないことは何かを見つけ、実行していくこと。それがチームを勝利へと導くのだ。

 

 個人的には前年と同じくきちんとしてプレーができていなかったと反省している。自分は何ができて何でチームに貢献できるのか。oneに入って先輩方のお陰でプレーできていたことを認識せず、自分というものをきちんと見つめてこなかったツケがきていた。気づかせてくれた彼は日本一のキャプテンだった。

 

 彼は間違いなくぼくの中で日本一のキャプテンだ。

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アルティメットを始める君へ(9)

2016ロンドン世界大会のマスター部門メンバーと。
2016ロンドン世界大会のマスター部門メンバーと。

アルティメットを始める君へ(9)

 

日本一

 

 日本一になり、横浜スタジアムで開催されたアルティメット王座決定戦に出場した。相手は全日本大会で闘った同じチーム。ぼくの両親、妹、横浜に住んでいるおばさん家族が観戦に来てくれた。

 

 生まれて初めてプロ野球の開催地に立つと、嬉しかった。プロ野球選手みたいだと思った。そしてやはり舞い上がった。練習では人工芝の感触と怖さを知った。

 

 昔の人工芝は、まだまだ発展途上でダイビングをすると擦りむき大きなケガになった。試合開始。先取点のチャンスがやってきた。ぼくへのシュート。ダイビングキャッチ。練習中の先輩のケガが脳裏に浮かぶ。キャッチミス。大きなチャンスを逃したぼくらは流れを逸し、あっという間に7点差を付けられ、途中追い上げるも、ビハインドのまま試合は終了した。悔しかった。今でも、ぼくのせいで負けたと思っているからビデオはできるだけ見ないようにしている。

 

 8月に宇都宮市で開催された世界大会のメンバーに選出された。初めての日本代表。嬉しかった。もちろん2軍か3軍。それでも日本代表は日本代表。代表メンバーには、アメリカでアルティメット修行をしてきた人やディスタンス日本記録保持者がおり、勉強の場だった。疑問をぶつけると必ず返ってきた。練習にも付き合ってくれた。人の温かさを知った。

 

 同級生にはびっくりするほどスローが上手は人、ダイビングキャッチが上手な人、冷静なサウスポー。振り返るとぼくの年代はタレント揃いだった。のちにKABUKIという同級生チームでドリームカップに参戦したが、思えばさきがけだったのだろう。

 

  ずっとスローを投げていた記憶がある。ぼくは同級生たちと試合に出ていた。スローが飛ぶようになったぼくはロングシュートを常に狙っていた。面白いように取ってくれる同級生がいたからだ。パスをもらって彼にシュート。あの時のぼくの頭には彼しかいなかった。傲慢だが2人でアルテをしていたといってもいいだろう。だから一生懸命パスをもらえる位置を探した。パスがもらえない時にどうして今の走りでもらえなかったのかと訊いてまわった。シュートがしたくてたまらない一心だった。

 

 世界大会は3位に終わった。優勝を目指していたから残念だったそうだが、ぼくとしては満足だった。世界大会で得たものはたくさんあった。体力、技術、試合観。真剣という言葉の意味。一番大事なものはやはり”人とのつながり”だった。

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アルティメットを始める君へ(10)

雪の上の自分の足跡をみる。
雪の上の自分の足跡をみる。

アルティメットを始める君へ(10)

 

辞めたい

 

 大学4年生の時に出場したウィスコンシンでの世界クラブチームアルティメット&ガッツ選手権大会は学生のときの集大成だった。オフェンスは、ぼくがパスをもらってシュートするようなシステム、ディフェンスはゾーンを多用し、ぼくはショートディープという真ん中のポジション。とにかく動いた。1日2時間の試合を6日間したのだから驚きだ。今では考えられない。最後の試合でダイビングキャッチを試みて、足を攣っただけだったから強靭的体力だったが、チームの底上げ的には良くなかった選択だったのかもしれない。

 

 結果は覚えていないが、後輩のH君に投げたバックハンドのロングシュートを覚えている。大きな弧を描いたそのシュートはとてもきれいだった。

 

 大学を卒業する時、ぼくは就職活動をしなかった。大学院へ行って、人類学を勉強しようと思ったからだ。ぼくはもともと生物が大好き。しかし高校の理科の選択のときに、何も考えず、物理と化学を選択した。あるとき、生物の教科書を持っている友だちがいて、疑問に思った。いつぼくは生物を勉強するのだろうか。聞いてみるとすでに選択は終わっているという。やむをえず、そのまま物理と化学を履修したのだった。

 

 中学生のときからゴルフを始めたぼくは、いつかプロゴルファーになりたいと思っていた。毎日毎日学校から帰ると近くの公園でプラスチックでできた穴あきボールにビニールテープを巻いて、コースを作ってフックやスライス、パンチショットなどを練習していた。薄暗いところで、時計の針のチクタクという音を1分間聞くだけのメンタルトレーニングもしていた。

 

 正座をして、丹田に意識を納め、60回チクタクを数えるのだが、これがどうして10回も数えているうちに、いろいろなことが浮かんできてしまうのだ。勉強の時に集中できない理由だ。今、子どもたちと一緒に勉強をしていると問題に向かったかと思った瞬間に話しをしてくる。それは問題を解こうと集中した瞬間に話したかったことが思い出されてつい話してしまうのだ。でも集中力がつくとチクタクを数えられるようになる。ぼくがそうだったから。その集中力は勉強にも役立ったことは間違いない。勉強時間の割に成績は良かったからだ。

 

 その頃、愛読していたDr.タイフーンというまんがの主人公はプロゴルファーで物理学者。いつしか、ぼくは彼に影響され、プロゴルファーで物理学者という夢を抱くようになった。物理と化学も悪くないと思うようになっていった。大学に合格させていただき、物理学科で勉強するようになると、淡い想いは完全にかき消されていった。講義がさっぱり判らなかった。ハイゼンベルグの不確定性原理だとか統計力学だとか量子力学だとか、それを学び進めるための微分積分。いつしかぼくのこころは生物、人類学へと向かっていった。

 

 しかし力が足りず大学院試験が不合格となり、夢半ばであったが、地元に帰った。振り返ればバブル最後の景気であったから同級生と同じく、サラリーマンへの道もあったなあと時折後悔したものだった。地元に戻ると、近所の鉄工所で働かせてもらった。有り難かったし、手に職をつけようと思っていた。自分が高所恐怖症ということを知ったのもこの頃だ。いつしか家庭教師の話しがきて、毎日のように鉄工所の仕事のあと、家庭教師もしていた。鉄工所の親方の勧めで鉄工所を辞めて塾を開いた。

 

 ひまわり塾という数学の学習塾。こじんまりとしていたが一国のあるじとなり、とても嬉しかった。何より、子どもたちの問題を解いたときの爽快な笑顔が楽しみになっていった。その頃、ぼくは全日本代表メンバーだった。スウェーデンで開催される世界大会へ出場するため東武線で片道4時間掛けて毎週のように通っていった。行きは良いのだが、帰りの電車の中、いつも喪失感というのかどこかむなしさのような感覚があった。

 

 フライングディスクを辞めるという選択が、いつの間にかぼくの心の中に見え隠れするようになった。しかし、その想いをかき消してくれたのが、近くの公園で投げたディスクの美しさだった。青空に向かって放たれた白いディスクはウィスコンシンで投げたあの大きな弧を描いたディスクの光景と同じだった。

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アルティメットを始める君へ(11)

現役時代の会津大学OB白石くんと。
現役時代の会津大学OB白石くんと。

アルティメットを始める君へ(11)

 

出会い

 

 中学校から始めたゴルフは田舎では有効な遊びだ。人口も多く多世代と交流できるし、プレーフィーも安い。平日だったら5,000円以下、お昼付きで3,000円というコースもあるし、休みの日でも7,500円程度。その後の懇親会も焼き肉食べて、たらふく飲んで1人3,000円というお店もある。田舎暮らしはお金が掛からないのだ。

 

 学習塾を始めたぼくは、ゴルフをしたりお酒を飲んだり田舎暮らしを満喫していた。毎日仕事が終わると幼馴染の家にお邪魔して毎晩遅くまで飲んだ。いい迷惑だったと反省している。

 

 自慢にならないが1人でウィスキーのボトルを1本一晩で空けてしまったこともあった。おまけに、母が作ってくれていたごはんもおいしく、毎食毎食腹12分目まで食べているという節操のない生活をしていた。次第に増えた体重は72kg、体脂肪率はなんと33%。ウェストは85cmあったんじゃなかろうか。おじさん路線まっしぐらだった。

 

 ある日、新聞に第2回アルティメット大会の案内が載っていた。場所は本郷町(現、会津美里町本郷地区)。ぼくが住んでいる下郷町から会津若松までの途中で車で30分という近場だ。アルティメット大会というだけで驚くが第2回というのにも驚いた。飛び上がる気持ちで早速主催の本郷公民館にアポを取って大会へ出かけた。

 

 行ってみると誰も経験者が居なかったが、試合らしきことはしていた。嬉しかったし、地元でアルテができることがとても不思議だった。大会で出会った人たちと話しているうちに、少し北に行った北会津地区でも中学生に教えている先生がいるという。ぼくはさらに小躍りしたくなった。

 

 その後、本郷地区のフィットネス本郷という総合型地域スポーツクラブでアルティメットを教えることになり、北会津へもお邪魔するようになった。初めての人たちと一緒にアルテをするようになって、改めて初めての人たちにパスを投げる時にはよくよく気をつけなくてはいけないと感じた。グローブも普及していない時代だったから、普通に投げられたディスクは結構痛いからだ。

 

 練習には家族連れも多く、お母さんや子どもに投げることが多くなる。如何に体感スピード”0”でパスを取ってもらうかに神経を使った。この経験がぼくの技術を格段にアップさせた。学生時代からただパスが通れば良いと思っていたわけではなかった。パスを取る人の癖、例えば、普通のパスはキャッチミスするが膝元の早い角度のついたディスクは絶対に落とさないなど常にディスクのスピード、角度、場所を気にしてパスを投げていた。その癖がついていたからできたことかもしれない。

 

 ダッシュでミートに来る小学1年生にウルトラスターを取らせることがいかに難しいか一度試して欲しい。今は、ミックスでアルテをすることが普通になりつつあるから男子が女子に投げる時に、感じられるかもしれない。フィットネス本郷の練習には、なぜか会津大学の学生も参加していた。楽しそうにアルテをしていた彼らに『サークル作ってみなよ』と持ちかけた。

 

 数日後、福島県で初の大学アルティメットサークル『会津大学Dualboot』が誕生した。

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アルティメットを始める君へ(12)

永遠のアイドル、玄太郎。
永遠のアイドル、玄太郎。

アルティメットを始める君へ(12)

 

結婚

 

ひまわり塾。そう名付けた学習塾は結構繁盛した。母は地元では有名で、彼女がいろいろと口を聞いてくれていたらしい。そうでなければ田舎ではなかなか大変だ。

 

ぼくは数学を教えていた。大学時代は物理学を勉強していたのだが、教える自信は無かった。数学を教えるにあたって、教科書を買ってきておさらいした。

 

数学を教えるということはある程度得意であったということで、得意であったということは、生徒がどこでつまづくかは判らないのだ。だから勉強ができる学生が教師になることほど不幸なことは無い。

 

ぼくは中学1年生の時に数学がさっぱりだった。2年生になり数学塾に通わせてもらうようになってから数学ができるようになり、好きになっていった。因数分解の1問を1週間悩み続け解いたこともあった。

 

勉強ができる教師は生徒の、勉強ができない生徒は教師のお互いのレベルが理解できない。できないことや判らないことには必ず原因があり、例えば、方程式が解けない生徒は、文字式の計算ができないかもしれないし、アルファベットが判らないかもしれないし、わり算ができないかしれないし足し算や引き算ができないかもしれない。眠いのかもしれない。もしかしたら脳に特異性があるのかもしれない。ある生徒は9のたし算だけができない。親もそうだという。いろいろあるのだ。

 

数学を教えることも含めて学習塾は勉強になった。教えることで自分のレベルがアップするということは間違いない。同じ中学3年生でも足し算が怪しい生徒もいれば、高校の数学だって解けてしまう生徒もいるのだ。彼らが中学校では同じ授業を受けているのだから教師も大変だ。ここに公教育の限界がある。ぼくが教師にならない決断をした理由でもある。

 

そのころ、ひまわり塾に見学を申し出た後輩がいた。夏休みに、2人で来るという。彼女たちは英語を専門にしていたので、生徒たちに英語を教えてもらった。どんな授業をしたのかは覚えていないが、生徒たちの顔がどこかよそよそしく可笑しかった。稲刈りにもおいでといったが言ったことさえ忘れていた。来るとは思ってなかったからだ。

 

9月に入ると彼女から稲刈りに来ると連絡があった。夢にも思わなかった。当時の稲刈りはコンバインで稲を刈り取り、たまった籾を籾袋に入れて、あとで回収するというスタイルだった。ぼくらは一緒に、籾が入った袋をトラクターで集めた。運転しているぼくを制して1人で籾袋を荷台に載せる黄色いTシャツの彼女は、かっこよかった。

 

稲刈りが終わると、稲藁の香りが残る田んぼで、スロー練習をした。彼女のスローはとても取りやすいとその時初めて知った。彼女とは、たくさんの話しをした。ほとんどがアルティメットの話題だったと思うがぼくの人生観みたいなことも話したかもしれない。

 

12月。ぼくは彼女の両親に、彼女との結婚を願い出た。

 

『それはいいけど、式はどうするの?』

 

彼女の母親は言った。そこまでは考えてなかった。

 

当たり前だが反対されると思っていた。彼女の両親とお会いするのは2回目で、ぼくがどこの馬の骨だかわからないからだ。

 

『考えていないです。』

 

『早めにしないとねえ。』ということで早速郡山の結婚式場に連絡すると、10月18日は仮予約だというのでその日に決定した。

 

彼女の卒業式の翌日に結納をした。

休みの日だった4月5日に、日が良いということで婚姻届を出した。

結局受理されたのは次の日だったことは今では笑い話。

 

それでも4月5日はぼくらの結婚記念日だ.

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アルティメットを始める君へ(13)

縦バージョンの東北リーグロゴ
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アルティメットを始める君へ(13)

 

環境

 

環境が人を変化させ、成長させる。このことはぼくは間違っていないと思う。大学時代、全日本で優勝を狙えるチームに所属し、日本代表にも選ばれ、天狗になっていたぼくも地元では無名なただの人。

 

何も伝えなければ何も伝わらない。肩書きだけでは通用しない。伝え方も間違えると嫌みになってしまう。やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじとは山本五十六の言葉。

 

フィットネス本郷での経験、会津大学での経験、そして岩手県北上市で開催された全国スポレク祭がぼくを大きく変化させ成長させてくれた。いつしか自分が満足するプレーからチームメイトが満足するプレーを心がけるようになった。自分が喜ぶよりもアルティメットを始めたばかりのチームメイトが喜ぶ顔が嬉しかった。

 

『全国スポーツ・レクリエーション祭』は、勝敗のみを競うのではなく、誰もが、いつでも、どこでも気軽にスポーツ・レクリエーション活動を楽しみ、交流を深める事を目的として、昭和63年から各都道府県持ち回り方式で毎年開催されるイベントで、2005年は岩手県での開催。

 

北上市ではフライングディスクが開催され、アルティメットとディスクゴルフが北上市総合運動公園で行われた。500名以上の参加という過去に例を見ない大成功に終ったフライングディスク特にアルティメットにかける北上市の木野君はじめ参加していた面々に押され、毎年アルティメットの大会を東北で開催する事を閉会式で宣言してしまった。

 

これがアルティメット東北リーグの始まりになった。

 

そのきっかけはやはり北上市の人たちだった。社会人から始めた北上市の面々が口をそろえてアルティメットの魅力を語ってくれていた。心が動いた。アルティメットに心を動かされたのはぼくだけではなかったのだ。

 

大学の恩師、諸岡先生がいつも言っていた、”Ultimate changes my life." ふとこのフレーズが浮かんだ。ぼくには大学時代から先輩にもらったものがたくさんある。それをかえさなければ、恩返ししなければいけない。それに気づいたのがこのと時だった。

 

フライングディスク人口の拡大とアルティメット日本代表の輩出というアルティメット東北リーグの趣旨が決まったのもこういう想いがあったからだ。

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アルティメットを始める君へ(14)

東北リーグのロゴ
東北リーグのロゴ

アルティメットを始める君へ(14)

 

東北リーグ

 

 アルティメット東北リーグは今年で8年目となる(2013年当時)。最初の大会が80名程度の大会だったが昨年の7年目は福島会津大会278名、いわて北上大会203名、やまがた米沢大会237名、3大会合計で718名。

 

 アルティメットを楽しむ集団であれば、ここまでの規模にはならなかったと思う。東北の大学にはアルティメットサークルや部活動がある大学が少ないのだから。昔、秋田経法大学(現在のノースアジア大学)にもアルティメットサークルはあった。全日本選手権にも出ていたように思うが、いつの間にかなくなってしまった。

 

 日々の活動だけではなく、人前で披露する、どきどきする場面はやはり必要なのだと思う。その披露する場所が遠ければ遠いほど、人の気持ちは離れていく。気持ちが離れたところに継続はない。

 

 私たちアルティメット東北リーグ実行委員会は、日本の総面積の18%となる66,890㎢という広大な面積を誇る東北地方(福島市~青森市 341.4キロ 福島市~東京都 240.9キロ)にあった大会の形式、つまり東北リーグ形式にして各地を転戦することを決めた。

 

 8年目の今年(2013年当時)は秋田県での開催はないが、いずれ開催されることだろう。

 

 アルティメットで一番大切な事は、何か。それは”スピリットオブザゲーム”。それは間違いない。ただ、プレーヤーが一人しかいなかったらそれも成り立たない。相手がいるからこそ成り立つ条件だ。だからこそ仲間を大切にしたい。

 

 同じ想いをもった仲間をたくさん作ることが私たちに課せられた課題だと思っている。今年4月に、アルティメット東北リーグ主催の新歓フェスタでアルティメットについて話す機会をいただいた。

 

 アルティメットについて大事なことを5つ挙げた。1つ目は、キャッチ。2つ目はラン。3つ目はスロー。4つ目は些事を大事に。5つ目はマネジメント。キャッチは誰にでもできる。初心者でもできる。だからこそ大事にしたい。

 

 ゴール内でのキャッチつまり得点が多いほど最優秀選手に選ばれるチャンスは増える。走ること=ランはどんなスポーツに於いても大事なこと。統計的に1点を取るのにかかる時間は2分半。少なくとも2分半は走り続けられるように努力すべきだ。

 

 一人での努力は相当な胆力を必要とするので誰かと一緒に走ることをお勧めしたい。音楽も誰かに数えられる。想い通りにスローが投げられたら試合での活躍の機会は増すだろうし、何より自身の精神衛生上良い。

 

 勘違いして欲しくないのは、スロー自体をキレイにしようとするあまり試合で使うスローを練習しないということだ。試合で使えるスローとは何か?それはパスが通るスローだ。

 

 単に結果パスが通ればよいということではない。一瞬一瞬状況が変わる試合において状況判断が求められる。日頃から状況に応じた練習を心がけたい。風が強い日、スローの調子が悪い日。向かい風、追い風、右からの風、左からの風。1年生相手、上級生相手。長い距離、短い距離。練習あるのみである。

 

 些事をおろそかにするプレーヤーは全日本レベルにはいないと断言できる。一つのパス、ラン、キャッチを大事にすることがチームへの貢献となる。チームへの貢献がないプレーヤーは決して代表には選ばれない。

 

 東北リーグに出場するチームにしても同じことだ。些事を大事にすることでチームに貢献できる。自分の行ったことがチームに力を与えるのだ。キャッチ、ラン、スローだけでは決して勝てない。マネジメントが必要なのだ。

 

 どうしたら最小限の労力で勝てるか、そこをとことん話し合ったチームは強い。最近では学生2連覇を果たした上智大学FREAKSが良い例だろう。体格差がある体育大学のチームといかに戦い勝利を得るか、とことん話し合ったと言う。

 

 この話し合いは将来仕事でも必ず活きてくるから学生時代にやっておくと有利だろう。アルティメット東北リーグを足がかりに、全国へと羽ばたいていって欲しいものだ。

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